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2019年8月

2019年8月 8日

浅間山の噴火とフェスタの終了

 地震には割合敏感で、新潟で震度3、くらいでも軽井沢で「地震だ!」と感じてしまうのですが、今回の噴火は何も気づかないで、TVのテロップで知ったくらいです。長男のお嫁さんから「大丈夫ですかあ」と電話があったのは、ちょっと感激でした。カナダからと神奈川?からのメッセージも。
 丁度今日、西区の防災の日で、袋に入れて湯煎して炊いたご飯に、レトルトカレーの昼食を公民館で食べたばかりで、何となく気持ちに備えができていたから、あまりショックではありませんでした。

 で、前後するのですが、今年のせせらぎ文庫フェスタ、無事に終了しました。今年はジニアス円谷先生にお任せして、8月3日の軽井沢附属会の方に、何となく力を入れていたので、事故もなく、大きな赤字にもならずに終了したので(実は経済的に成り立つかどうか、とても心配だったのです。でも、英語の絵本をアチコチのマルシェや、会場で売ったので、少なくとも、何とかなりました)私の中では大成功!でも、地域の大人からは、子どもの参加者が少なすぎる、とクレームが付きました。軽井沢では、大人が理解してくれないことには子どもは来られないので(親が車で送迎するので)、大人の「はなそう会」に力を入れたのです。そして、はなそう会は、講師の鈴木康玄君の話が面白かったこともあって、何年ぶりかで内容のある会になりました。5年くらい前に、松本猛さんが、絵の話をしてくれて以来です。

 色々悩みもありますが、私は今の内容を、あまり変えたくありません。日本語と英語とスペイン語の読み聞かせ(来年はフランス語も復活したい)、理科と社会と音楽と、クッキーとポップコーンと折紙と、ごった煮の様な2日間が、やはり「文庫フェスタ」だと思うからです。余計なものを含んでいるからこそ、子どもが自分の本当に好きなものを見つけることができるのです。それを理解できない親が、子どもを来させたくないなら・・・・でも、親が来させたくないのではなくて、子どもにとって魅力がないのかなあ??? 来年はオリンピックに重なるので、また海の日の連休に戻します。そうすると、長倉神社のお祭と重なるので、また子どもが少ないかもしれません。いつか分かってもらえるかと思ったけど、もう次回は15回目なのです。私は本さえあれば、独房の中にいても幸せなのですが、次々と続く読み聞かせが、面白くないって子どももいるのでしょうか。

2019年8月24日

『くいしんぼうの おつきさま』なかたみちよ作 文研出版

 もう10日も前のことになるが、令和元年8月15日の満月は、ひときわ美しかった。もっさりと木に覆われて、この間もお隣のご主人に「鬱陶しくないの?」と聞かれてしまったほど薄暗い庭だが、庭の真ん中に立って空を見上げると、ちょうど満月の大きさにぽっかりと空が見えて、満月の夜は、お月様がすっぽりと黒い木の枝の隙間に、はまって見える。

 そんな夜、うづ高く積まれた書類の間から、この黒い表紙に黄色い満月の絵本が顔を出した。見ると昨年の8月に出版されている。この椅子に坐って、窓越しに月を見ながらこの本を読んで、「来年の『海外子女教育』の8月号の子どもの本棚で紹介しよう」と思って書類の間に挟み込んで、例によってそのまま、忘れてしまったのだ。

 さて、この絵本、ちょっと楽しい。三日月になったお月様はお腹が空いて、夜になっても空にのぼらない。「ほしぞらレストラン」のコックさんが心配して聞くと、お腹が空いて元気が出ないから、バナナを1本下さいという。毎晩1本ずつバナナを食べて、少しずつ太りながら空に昇るが、やはりお腹が空いて降りてきてしまう。そこでコックさんは、グレープフルーツを持ってくる。お月様は喜んで食べると、グレープフルーツの形になって空に浮かび、それでもお腹が空いてオムライスを食べるようになり・・・と満月に近づいてくる。それがどうしてまた三日月になるかは読んでみて頂きたいが、あるいは9月1日のFM軽井沢、11:15からの「魔法使いの本棚」では、もう少し先までストーリーをお話するかも、しれないから、パソコンのFM軽井沢で聞いてほしいが、お月さまの物語は、兎角しんみりしがちなのに、その筋立ても奇想天外・・・ってほどでもないか、でも絵がまた素直に明るくて、ちょっとアニメチックでアンクル・トリスみたいなコックさんもキャワイい。最後に月の満ち欠けの説明もあるから、教育ママに虐められている可哀想な子どもにプレゼントして、ひとときの安らぎを与える口実にもなる。

 8月15日というと『8月15日の茶屋』という京マチ子の舞台を思い出す。まだ幼い頃に見たらしくて、筋書きも覚えていないのだが、やたらに明るい照明の中に、凝った舞台装置で、貴船辺りの川床の設定だろうか、朱塗りの低い手摺の縁側に、すらりと立った京マチ子の美しさが、今でも脳裏に焼き付いている。清冽な色気、とでもいうのだろうか、肌を見せれば色気になると思っている近頃の若い人に見せてあげたい。ああいう人がいなくなったから、こういう世の中になったんだろうな。顔やスタイルの美しい人は沢山いるが、立居振舞というか、人柄というか、美しい女性がいなくなったのが寂しい。