さすがに安野光雅!という本で、『海外子女教育』への第1稿に、「数学者の安野氏ならではの」と書いたら、ICBCのメインスタッフである吉沢さんと杉山さんから、早速「数学者」はいかがなものか、とメールが入った。調べてみると、数学者の藤原先生に可愛がられたという記録はあるが、彼自身は特に数学の専門教育を受けているわけではない。森毅と組んで、或いは安野氏だけで、勝れた数学絵本をたくさん書いているが、確かに数学者、とは言えないのかもしれない。(しかし、学者、という表現には、何らかの資格が必要だとは思えないのだが、編集に言われて修正するよりは、通常から、仲間内で校正しあってから編集にだしているので)と思い直して、「数学に明るい」に変更した。どうして数学に拘ったかというと、このしりとり絵本は、統計学が身についてないと、とてもできない構成になっていて、見開きにごとに15,6の絵が描かれていて、それを選んでしりとりを続けていくと、最後の頁は「ん」で終わる6つの品物に導かれて、終結する、という仕組みになっている。
ところがここで、このパソコンにも入り込んでいるらしいサイコパス野郎の悪戯でうんざりして、あとは任せるから、このまま出して、と言いおいて、体調が悪いことでもあり、私は降りてしまった。ところが一番読者に分かり易い「かれーらいす」で始めた私のしりとりが、他の2人には上手く終了しなかったようで、なにやら「えもんかけ」が出てきたりして、結局編集に色々いじられ、前号に続いて、私の文章ではなくなってしまった。
という事件が起こり得るほど、ことばの糸が絡み合っていて面白い。子どもは案外、単純に絵を見分ける能力を持っているから、素直に最後まで行きつくのだろうが、大人は集中しないと、途中で行き詰まる。一つのページに同じ文字で始まることばが幾つもあって、たとえば「ばんぺい」などということばに、英国の衛兵交代の「ばんぺい」の絵が描いてあるので、大人はつい、番兵を見落としてしまう。
でも、途中で詰まったら、ページを戻って探し直すと、かならず「ん」のことばに行きついて、「アハ効果」で、すーっと気持ちが良くなること請け合い。家族でも、恋人同士でも、勿論一人でも楽しい。
こういう本を良い本というのだろう。
で、この『へろへろおじさん』も、表紙の、歩いているオジサンの足元に、青い小鳥が何やら考えながら歩いている絵を見ただけで、既に私の佐々木マキだなあ、と思えてしまう。
とにかくこのオジサン、いえ、佐々木マキではなくて「へろへろおじさん」ですが、運が悪いというか、間が悪いというか、たかがポストに手紙を入れに出かけただけなのに、階段で滑り落ちるは、頭の上から汚れたマットが落ちて来るは、ちょっとショウウィンドウを覗いている隙に足に犬の引綱を巻かれて道を引摺り回され、帽子は車に轢かれ、最後はとうとう、豚追い祭りの豚の群れの下敷きになっても、健気にもよろよろと立ち上がり、ポストに手紙を投函した次第。ところが一仕事済んだとアイスクリームを買うと、木陰のベンチに行く途中でぽたりとアイスクリームが地面に落ちるというおまけつき。ここでオジサンの気力もついにポキリと折れて、ベンチに座って泣き出してしまうが・・・。最後に天使の救いがあるのであります。
やっぱり、佐々木マキって良いなあ。
物語ではないから、一気に読めるはずもなく、だからと言って興味深いので、手元に置いて、気の向いた時に気の向いた章からパラパラと、色々な栞をはさみながら読んでいたら、いつの間にか半年が過ぎて、読むページがなくなってしまった。全部読んでも、繰り返し開いてみたくなるので、昨日の日曜日、FM軽井沢で紹介して、これでひとまず2階の本棚にしまいこみたいと思う。
ホームズの事件簿に関わるあれこれが、101項目にわたって書かれているのだが、ホームズファンでなくても面白く読める。特にロンドンの街についての項目が多く、なつかしいあれこれが沢山出てくる。ローストビーフで有名なレストラン・シンプソン、『マイフェア・レディ』との関り、スコットランド・ヤード・・・。私がロンドンにいた頃は、と考えてみたら、もう半世紀も昔の事なのだが、その頃はまだ、スコットランドヤードの真向かいに、コベントガーデン劇場があって、オペラがはねて外に出ると、びっしり埋まったお迎えの車とタクシーを、お巡りさんが沢山出てきて交通整理をしてくれていた。イライザが花を売っていたコヴェントガーデン市場が、まだそのまま残っていたから、着物を着て、ちょっと気取ってタクシーを止めて「コヴェントガーデン迄!」というと「ジャガイモを買いに行くのかい?」とドライバーがお決まりのジョークを返してくれた。
帰国してからも、JBBYのコングレスがある度に、帰りには必ずイギリスに寄ったので、コベントガーデン市場が、スマートなアーケードに纏められてしまったのが、ちょっと寂しかった。あまり変わらない街ロンドンも、やはり少しずつ変わって、だんだん見覚えのない街になってしまうのかもしれない。私の好きだったウォーレスコレクション美術館についてまで書かれているので、お気に入りのロンドン案内にもなる。昨日のFM軽井沢では、ホームズの部屋が残っているベーカー街には、日本貿易振興会のオフィスがあることを紹介しておいた。小学生のころ、緑色のカバーのかかった全集で読み始めたホームズの事件簿に、70年もたった今、また出会えたわけである。
]]>もっといろいろな方に読んでほしいと思う本はたくさんあります。誰にも話さないうちに、記憶が薄らいで、忘れてしまうのです。昔は良い本を読んだ感激を忘れるようなことはなかったのに。お正月早々愚痴ってもしょうがないので、忘れないうちに、焼き芋の話をご紹介します。
みやにしたつやの絵は、覚えてしまうと、本屋さんでもすぐ見つかります。ピカソ風というとイメージが違うのですが、動物の横顔に、目が二つ描いてあって、ちっとも不自然でなく、正面から見た動物の表情がわかるのです。あら不思議。
で、この本の主人公はブタ君、相手役がおおかみ君。狼君が自分の持っている焼芋を、豚君の持っているお握りと取替えて!と言っておいて、お握りをその場で食べ、焼芋を豚君に渡さずに行ってしまったのが事件の始まり。
その話を聞いたネズミ君は、お握りを食べてしまった狼が、豚の焼芋を取って逃げた、と誤った事実を告げ、それを聞いた兎は、狼が豚をお握りに変えて、そのお握りを食べているうちに焼芋に変わった、と猿に告げる。猿は狸に、豚がお握りを持っていたら狼に変身して、その狼がお握りを食べたら、狼が焼芋になった、と話す。狸はカバに豚がお握りを狼に変え、その狼が豚を食べようとしたら、豚が焼芋になったと言う。その話を聞いたカバが走ってゆくと、丁度、狼が焼芋を食べようとしていたので、「ぶたくんを たべるなー!」といって狼から焼芋を取り上げ、「さあ、ぶたくん、おうちにかえろうね。どうしてやきいもなんかに なっちゃったの」といいながら、豚君の家に着くと、そこにぶたくんが居て、「じゃあ、この やきいもは だれ?」、というお話。
ぼんやりしながら読み聞かせをしていると、聞いている子どもも訳が分からなくなるから、ちゃんと下読みをして、段取りを理解してから、読み聞かせをすること。でも、読んでいて、なんだか楽しくなる本。
]]>この幻の本を、昨日のFM軽井沢で紹介した。唯一、私の語れるお話だったのだが、放送するのに間違えてはいけないとメモを取っていったものだから、宮尾さんに「語り風に、ご紹介いただきました」と言われて、多少傷ついた。その上、一番大切な2行を飛ばしたような気がしてならない。何のためにメモしていったんだ!と後悔しきり。
ストーリーは、村上豊描く夕焼け空で、大男がパンを焼くシーンから始まり、大男がアグンとひとくち食べたカケラが晩秋の地上に落ちて、冬ごもりをするクマたちのお腹を満たした、というもの。クマのこぼしたカケラが子ネズミの、子ネズミのこぼしたカケラがコオロギの、コオロギのこぼしたカケラがアリたちの、冬ごもりの準備になって、「みんなみんな穴の中で、春が来るまで、おやすみなさーい」でおしまい。お腹が一杯になって、深い雪の中でゆっくり眠りに入る、という、枕元の読み聞かせに、最適な一冊でした。
]]> とにかく、このゴッペというのは、水沢研の挿絵に寄れば、ぼさぼさ頭に猫みたいな口ひげがあるおかしな奴だが、好意が持てる。ゴッペという呼名の由来は、鼬の最後っ屁、だそうだから、そういう奴なのだ。
小学3年生のアキコは、新学期、どうも学校に行きたくない。心配したパパに、もしかするとパパのいたずら書きが残っているかもしれないぞ、と言われて、興味津々になって、学校に行くようになる。イタチみたいな顔の悪戯描きに触れてみると、絵がニヤッと笑ったようだ。それからというもの、何かというと、ゴッペが現れる。
評論家なら、ここできっと、登校拒否の子どもへの親の愛情がどうのこうのと言うのかもしれないが、この山中恒の作品は、私が読んだ限りでは、そんな理屈っぽいことは少しも感じさせずに、子どもの心の問題を、片っ端から片付けてくれている。子どもから見た、気に入らない大人のあれこれをあげつらいながら、どこかで必ず、でもね、親たちはこんなに君たちを愛しているのだよ、と読者を安心させてくれる。
山中恒のあと、こういうタイプの作家が、皆絵本の方に行ってしまったようで、子どもの読書力の低下に合わせたのかもしれないが、数少ない読める子の方が、こういう悩みを持っているに違いないので、もう少しこの年齢、この精神年齢の子どものための読物がほしい。
何だか今日は、真面目な気分。らしくないかも・・・・・。
軽井沢に居ると、鴨はそれほど珍しい存在ではない。レストランのメニューでもよく見るし・・・。ではなくて、我家の庭に流れるせせらぎにも、年に何度か、つがいの鴨がどこからか泳ぎ上ってくる。だから特に珍しくもなく、話題にもならないので、10月4日のFM軽井沢「魔法使いの本棚」で、ようやく紹介することができた。そしてようやく気が付いたのだが、渡辺茂男先生の訳ではないか!渡辺先生には、ICBA(国際児童文庫協会)を立ち上げる前、だんだん文庫を始める頃から、亡くなられる直前まで、ずいぶん色々教えて頂いた。
ICBAの10周年が過ぎた頃だっただろうか、青山の子どもの城のすぐ近くの花屋さんの前で偶然お目にかかって「お茶でも飲みましょう」と誘われて、すっかり上がってしまった私は(全然上がっているように見えないのが困るのだが)、大きなクラブハウスサンドをバクバクと食べながら、夢中でなぜか初恋の話をしていた。やがてお皿は空っぽになり、渡辺先生に呆れたように「あーあ、なくなっちゃったよ。ボクも一緒に食べようと思ってたのに」といわれて、ようやく正気にもどったのだった。
で、その渡辺先生の分かり易い訳のお陰もあって、鴨さんがとても身近に感じられるストーリーなのだが、大人になって読み返すと、ヨチヨチ歩きの鴨たちが何とか無事に道を渡れるようにと、交通整理をしたり、電話でパトカーを呼んだりするお巡りさんのマイケルが見事なわき役に描かれているのに気付く。良い本は、どんな本でも、読返すたびに新しい世界を見せてくれる。
]]>絵本というより、イラストの多い読物と言いたい文章量なのだが、渡辺茂男の訳で、するすると読めてしまう。子ども達に人気のあるドクター・スースの絵は、帽子の赤だけに色がついて、次々と生まれてくる赤い帽子が楽しい。50年以上も子ども達に愛されているドクター・スースの絵本は、どの1冊をとっても、物語に類似性がない。すぐにシリーズ化してしまう日本の絵本作家は、作家自身が悪いのか、出版社が悪いのか・・・・。
]]>さて、この本は、漫画と書いたが漫画とうよりも全部イラストで説明されている。あ、説明されているのではなくて、絵で語られている。だから小学生でもわかるだろうけれど、大人が理解するのを作者の意図の98%とすれば、子どもが面白さを理解するのは60%以下だろう。大人の洒落のきいた内容なので。
先ず、目次より前に、「この本(店)は『本にまつわる本』の専門店、とあり、「〇〇についての本ってあるかしら?」ときくと、たいてい「ありますよ」と言って、奥から出してきてくれる、と説明している。
目次は書棚の絵で、様々な色と形の背表紙が、7つに分類して置いてある。『作家の木の育て方』『カリスマ書店員養成所の1日』『大ヒットしてほしかった本』等々。
中でも『本とのお別れ請負人』は身につまされる。本に囲まれた男を髭の老人が訪れ、貴方は素晴らしい本をお持ちだが、このままでは傷んでしまうと言い、この本を選んだあなたのセンスを本棚ごと、最高の環境で保管したいと口説き落とす。奥さんは何やらレシートを受取り、「持主の心のケアーを第一に、ハートフル古書流通」と書かれたバンを件の髭の老人が運転して去る、という見開き1ページの漫画になっている。
カバーの両側の羽で、『バタ足入門の本』は、子どもが本を閉じると水泳板になっていて、プールの中でバタ足の練習を始める、というのと、『ちょっと大きくなれる本』は、小さい子が、その本を椅子の上に載せて、その上に坐ると、ちょっと座高が高くなって、テーブルで食事を始める、という2冊が、わずか6コマの絵で語られている。
ペン画ににちょこちょこッと色が付いているので、何やら楽しく、あっという間に読んでしまって、もう一度ページを繰ってみたくなる、新しいタイプの本。
]]>実は昨日から血圧が急に上がって、190の110になった。手持ちの薬を10㎜増やして飲んでいる。今朝は3日目で心配していたが、160まで下がった。・・・というわけで、またしても眠り姫病で、現在、ひどく眠い。だから、続きは、また、あとで。
]]> 自分の思い出ばかり書いてしまったが、チキンライスに戻ると、40章くらいになっていて、音楽のこと、絵のことから始まって、家族のことが一番多いが、家族を通して時代が感じられる。東京の下町の家族の暮らしは、こんな風だったのかと興味深い。とりわけ芝居の世界も描かれていて、『鬼平犯科帳』中心の池波世界しか知らなかったので、芝居の脚本の方が本職だったと書かれていて、歌舞伎も芝居も、プログラムはずいぶん読んでいるはずなのに、活字を読み飛ばしている自分が恥ずかしい。絵本でさえ、表紙をちゃんと読まない癖があったのだから・・・。
オリンピック前の日本橋の美しさをはじめ、東京の街並みの粋な様子も書かれていて、そうそう、そういえば、と思い出すことも多い。その中で友人の性格の良い息子が「月夜の晩にいくつもの橋を渡って歩き回っている時の気分の良さときたら・・・」という父親の話に「橋を渡って気分がいいなんて、どう考えても分からないな」と首をひねった、という話に共感した。どちらに共感したかと言えば、どちらかと言えば息子の方で、私の学生時代には、まだ、川風に吹かれながら渡れる橋もあったが、現在では車に隅っこに追いやられ、高いコンクリートの壁で川面も見えない橋ばかりだなあと、思うからだ。
さて『ル・パスタン』の方は、同じエッセーだがカバーも中身も全然違う。挿絵も著者が描いているが、なかなかお洒落な絵でカラーが多い。ヨーロッパ旅行や、映画、特に洋画の評論が多く、親の世代が話していた女優や俳優のエピソードが次々と出てくる。
いずれも、あまり考えこまずに気軽に読めるエッセー集で、コロナ期にはぴったりの読み物である。