『舟を編む』三浦しおん作 光文社

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 友人に勧められて、というより「何か面白い本教えて」とクラス会の二次会で友人に尋ねて教えてもらった一冊。卒業して半世紀以上になるのだが、私たちはいまだに、年に3回以上集まっている。とはいえもう正式に「クラス会」を企画する体力が無くなってしまって、ミニクラス会と称して10人程度がなんとなく集まってくる。そんな仲間が、よく面白い本を教えてくれる。

 高校生という多感な3年間を共に過ごしたクラスだから、何も言わなくてもどこかで心が繋がっている。受験で1分でも大切にしたい時間を、担任の先生の主導で、読書だ、コーラスだ、バレーボールだと、放課後の数時間を勉強から離れて過ごした。
 そのせいか、クラスの皆がよく本を読んでいる。しかも男同士はバッティングしている本が多く、誰かが「あの本」というと「ああ、あの本ね」と必ず3,4人がことばを添える。幸い、翌々日、紀伊国屋で良い店員さんが、2冊とも見つけてくれて、この「舟を編む」をすぐ読み始めたのだが、間で文庫に寄贈された本を読まなければならなくて、ようやく昨日から今日にかけて、読み終わることができた。

 『舟を編む』は、文中にでてくるが、「辞書は言葉の海を渡る舟だ」中略「海を渡るにふさわしい舟を編む」という物語である。真面目で、名前も馬締(まじめ)という主人公が、周囲の人に支えられ、要するに一冊の辞書を編纂した、という物語なのだが、本の中に人の善意が溢れていて、読んでいてどうにも生ぬるく、心地良い。一つ一つのことばを、違うことばで正しく置き換える、という作業が、どんなに大切で大変なことか。ことばの海に、文字通り埋まって過ごしている私には、とりわけ身近な物語だった。

 中学生の頃、桜蔭学園の当時の園長の水谷先生から「広辞苑」を戴いたことがある。御茶ノ女子高等師範卒業の母には、共学になって8年目の男子高等師範に通学している娘が心配で、自分の高校時代の担任であった水谷先生に相談したようだ。そしてなぜか水谷先生は、私には辞書が必要であると、お考えになったらしい。そしてその「広辞苑」の黒い帯には「あなたの生涯の伴侶、広辞苑」と書いてあった。
 それを見たとき私は、男と結婚するよりも、辞書を生涯の伴侶として、読み書きに携わる人になろうと、ぼんやり志したのだった。水谷先生の意図とは異なっていたのだろうが・・・


 せせらぎ文庫にも「広辞苑」を入れてあるが、あの重い辞書を借りて行った少年がいた。「このことばが辞書に出ているってお母さんに見せたいから」借りたい、という。辞書は少年とその妹にとっては、ゲームの手段になったりもしていた。この兄と妹は、どんなオトナになるのだろうと、文庫に携わる幸せをかみ締めたものだった。