『辞書を編む』飯間浩明著 光文社新書

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 『舟を編む』と一緒に友人に薦められて同時に買ったので、どっちを先に読もうかと迷った。結果、舟を編むを先に読んで良かった、と思った。文中に『舟を編む』の話が出てきたからだ。
一生懸命TVなどを見て居るつもりだが、近頃、情報の取り方がズレているのか、『舟を編む』も『天地明察』も映画になっているのを知らなかった。知らなかったから良かった、とも言える。文庫本の帯に、映画化された主演俳優の写真が出ていたりすると、本当にがっかりしてしまう。

 本を読む面白さには、自分の中でその物語を一緒につくりあげてゆく楽しみがある。読んでいる間は、映画監督であり、プロデューサーであり、あるいは舞台監督であったりする。知っている俳優やアイドルの誰彼の顔なんて浮かばない。作者が描いている人物がモヤモヤと姿を表し、やがてはっきりとした登場人物として動き出す。それが名作を読む楽しみなのに、先に、見飽きたような役者の顔写真が並んでいると、本当にがっかりだ。

 『この辞書を編む』も、幸い、辞書の編纂者であり、この本の著者であるる飯間浩明をまるで知らなかったから、頭で創り上げた、中年の、白髪混じりの、メガネをかけた、ちょい悪オヤジみたいな主役が、何のかんのとことば集めを楽しんでいて、私はその意見に、ああだこうだと文句をつけながら、本一冊分の長い長い会話を楽しんだ。

 何に文句を云っていたかというと、主に「新しいことば」の扱いだ。例えば「ヘップサンダル」は、著者が見つけて『三国』(三省堂国語辞典)7版に掲載されたそうだが、現在ではどこにもない、いわば廃れた文化である。文学の中にも、そうそうでてきてはいない。一体何のために辞書にだしたのか、次の版では落としてくれるのか、あまり好きなことばではないので、気になってしまう。もっと新しいことばや表現が出てくる。
「らぬきことば」なども「俗」マークをつけて出すのだそうだ。「それって、間違ったことばを受け入れてしまっているってことにならない?」と反論してみたくなる。

ことばは確かに変わってゆく。どうせ変わってゆくのだからと言って、まだ、現在違和感を持たれていることばまで、辞書に載せてはいけないのではないだろうか。悪く変わってゆこうとすることばの流れを、せき止めようとするのが辞書の編纂者の責任ではないのだろうか。

辞書を編纂するという、地味で、大変で、大切な仕事についてはよく分かった。たくさん溢れてくることばの取捨選択と、ことばへの愛着が行間にほとばしる。

新しい辞書も大切だが、古い辞書もとっておかないと、ことばはこうして、入れ替えられてしまっているのだということがよくわかった。

この種のテーマが、色々な分野で興味がもたれているらしく、「笑っていいとも」に、辞書の説明文を作る、というコーナーができた。その採点者になっている辞書の編纂者が、私が此の本を読んで頭に浮かべていた人物像にそっくりだったので、ああ、この人が飯間さんに違いない!と思ったら、講談社の国語辞典の編纂者の某氏であった。