『ずーっと ずっと だいすきだよ』評論社

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 これは、3月19日、FM軽井沢で紹介した絵本。初版が販売された頃、すぐに読んだし、手元にもあったのだが、多分、これまでに紹介はしていない。一つには、同じ評論社の『どんなに きみがすきだか あててごらん』がとても好きで、そっちを紹介してしまうので、こちらを紹介し難かったということもある。

 ストーリーは、犬好きの人なら、一度や二度は誰でも経験していることで、可愛がっている犬が年を取り、飼主は死期が近いのを知りつつ、より心を込めて世話をするが、逝ってしまう。
多くの本は、この辺りで終わるのだが、この本には続きがあって、主人公は、周りの人達とボクは違う、だって「ずっとずっと大好きだよ」と毎日ことばで伝えていたから、きっと愛犬もわかってくれただろう、と自分で自分を慰めるのである。

 絵本に何か「教え」を求めるなら、この本は「ことばに出して、心を伝えましょう」ということなのだろうが、私は、この本を読むたびに、もっと違うことを考えてしまう。

 相手の死が近いということを知っていて、それを知っているということも知られていて、その人の病床を見舞うとき、何といって慰めればよいのだろう、ということである。

 私が22,3歳の頃、親友が2人続けて亡くなった。1人目はお洒落だったから、痩せすぎた自分の姿を誰にも見せたくいないと、1年余り、誰も見舞うことはできなかった。亡くなる何週間か前に電話があって、美味しい店があるから直ったら喰いに行こう、貯金しとけよ、といわれたので、きっとスグ良くなる、と思っていた。亡くなった時、枕元に私の宛名を書いた白い封筒が置いてあったという。

 そんな思いをして半年たったころ、私のマネージャーを買って出てくれて毎週会っていた2人目の親友が入院した。実は中学のころから病身で、医者に迫って自分の寿命を訊き、覚悟していた。だからやりたいことを全部やっておくんだと、積極的に生きていた。もうとっくに宣告された寿命を過ぎ、検査値はあり得ないと医者を驚かせるほど、悪くなっていた。見舞いたいと思っても、かける言葉が思いつかない。何度か病院の前まで行って、そのまま帰ってきた。もう会えなくなると言われて見舞うと、「ちっとも来ないじゃないか」といわれ「忙しいのよ」と返事して「今度はちゃんと時間つくって来るわ」と約束して、それきりになった。

 お互いに死期を知っていて交わすことばを覚えたのは、母が癌だと宣告された時だった。その頃はまだ癌は本人には知らせなかったから、母が家族よりも先に知っていたのは、カルテの英語だかドイツ語だかが分かってしまったからだった。「慰められるのが嫌だから、私が知っていることを誰にも言わないで」と母は言った。だから私も慰めなかった。
唯、1日に1回必ず母を笑わせよう、と決心した。ゲラゲラ笑わなくてもいいから、心の中で、にっこりするような話をしよう!兄が私を母に会わせないようにしたので、私は毎日電話をかけて、その日あったことの中から、母を喜ばせるような話をした。母が亡くなっても何年かは、あ、今日はこの話をしよう、と、楽しい話を心でおさらいする癖が消えなかった。

 というわけで、この本の教訓とは、思いが少しずれてしまう。
この主人公は、ことばをかけることで他の家族と(犬への愛情の)差をつけるのだが、誰よりも君が好きだよとことばで言わなくても、黙ってそばに居るだけで、気持は犬に伝わったに違いない。でも、それでは「この絵本はこう言っているのです」なんて言い方はしないにしても、こういうストーリーです、というときに、一瞬つまってしまう。

・・・で、なかなか紹介できなかったけれど、子どもにとっては、大好きな犬が死んじゃうこともあるんだ、と死に向き合うだけで、充分な体験で、実際にそんな悲しい体験をする前に、耐性をつけておくところに、読書の大切さがある。それに作者であるハンス・ウィルヘルムは絵も描いているのだが、暖かく、優しい筆で、年を取って太りだした犬の、膨らんだお腹がすごく可愛い。理屈を言っていないで、子どもを膝にのせて読んでやりたい本。