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2020年8月

2020年8月 7日

『そらから かいじゅうが ふってきた』中川洋典作 文研出版

 授業中に窓から外を見ていて、「よそみをしない!」と先生に怒られたその時、空から怪獣が降ってくる。先生はさっさと逃げ出し、校長も教頭も逃げてゆく。ところが、グラウンドにやってきた怪獣は、足にとげが刺さって大弱り。みんなで力を合わせて棘をぬいてやる。やっとのことで棘が抜けたのに、お礼も言わずに怪獣が去ってゆくので、ボクは頭に来て「ひとに しんせつにしてもらったら なんていうんだ?」と叫んでしまう。そこで怪獣はちゃんと謝って、後片付けをして帰ってゆく。翌日、先生は「しっかり べんきょうしないと りっぱなおとなに なれないぞ」なんぞというが、そこでボクは「あ、かいじゅうが そらから ふってきた」という。おわり。

 という筋なのだが、先生が生徒を置いてにげるわけがない、と思っている世代は、古いのだろうか。怪獣が空から降って来るより、よほどあり得ないと思えるのは、幸せな世代なのだろうか。
 その件はともかく、絵はインパクトがあるし、怪獣が空から降ってくる、という事件が面白い。しかも、暴れる暇もなく棘を刺して、しおしおと去ってゆく怪獣が可愛い。
 授業中、先生の声を子守歌のように聞きながら、居眠りをしているのと同じ脳波で、ぼんやり校庭を眺めている気分は最高だ。雨が降っていたりすると、映画のシーンに入り込んだ気分で鼻歌でも歌いかねない。そんなところに怪獣が降ってくるのだから、やめられない。町の方から歩いてきて、校門に襲い掛かる等という平凡な設定ではない。今は亡き長新太さんの絵本を思い出す。

2020年8月 8日

『そらから かいじゅうが ふってきた』後日談

 後日、と言っても、ほんの昨日の今日だが、せせらぎ文庫のサテライト、「真面目な魔女の蚤の市」に今日も出勤したら、もう帰ろうかな、というくらい手応えのあるお客がなかったのに、6時過ぎにひとり、美女が100円ボックスにしゃがみこんだ。見ていると、カードの箱をかき回している。あ、買う気のある人だな、と嗅覚鋭く店のガラス戸を開けて(コロナで開けっ放しにしているのだけれど、今日はさすがに暑くて27℃、冷房を入れたので閉めていた)どうぞ、というと、中も見て良いですか、と入ってきた。関西の小学校の先生だそうで、日本語の絵本を2冊買ってくれたのだが、先生と聞いて怪獣が降ってきた話をした。「先生が真っ先に逃げて、校長も教頭も逃げたっていうんですよ」といったら「子どもが喜びそう」という。「え?子どもに受けるんですか?先生が逃げるって、ありえないでしょう?」といっても「ええ」と笑っている。・・・・そうなのか、子どもに受けるのかあ・・・。空から怪獣が降ってくるっていう発想が良いから、先生が逃げるってとこだけ変えられないかな、などと考えていたのだが、やっぱりそこが売りだったらしい。でも、ボクが怪獣を叱りつけて、後片付けをさせる所も面白いし、降ってきた怪獣が、棘を刺して暴れることもできずに去ってゆく、というのも安心して楽しく読める、と思ったのも、やっぱりおばあさんの事なかれ主義からきているのかなあと、妙に考え込んでしまった。

 自分が良い先生に恵まれていたから、とんでもないことだと思うのだが、考えてみれば息子の小学校の先生に一人、怒っている父親に会うのが怖くて、子ども達だけに謝らせた先生がいたな、と思い出した。「私が行くと、かえって危ないと思って」と言われて、役員だった母親一同、目を見合わせて口を開いたままだった。まさに呆れて声も出なかったのだが・・・。

 1日外出すると、翌日は体中が痛んで使い物にならないので、金土日月と4日続く出勤日は無理、と、たった4日の開店日も、適当に休みながら店を開けていたのだが、7月26日と8月1,2、と続いた「沓掛マルシェ」に皆勤したら、「ああ、やっと魔女に会えた」「いつ開いてるのかしらと、何回も来てみたんですよ」と何人かの人に言われたので、ちょっと反省して、今日はひどく体調が悪かったのだが、多少無理して出かけた。商売にはならないと決まっているので気軽に休んでいたが、やはり、ボランティアというのは真面目にやらなければ、と、ちょっと反省。無理してでも出かければ、こうして良い出会いがあるのだから。あの先生があの絵本を読んで、子ども達にどんな話をするのだろうと、いろいろ想像して楽しんでいる。

 『そらから かいじゅうが ふってきた』は売っていません。私の本棚に、ちゃんと納まっています。念のため。

2020年8月14日

『わたしの』三浦太郎 こぐま社

 まず、「おおきい いす、ちゅうくらいの いす、ちいさい いす」の絵と文字があり、次の頁には「ちいさい いす わたしの」とある。お茶碗の大中小、歯ブラシの大中小、靴の大中小で「小さいのは私の」と意識付けたあと、大きいバナナ、中くらいのミカン、小さいイチゴ、私のどれかな、と読者を、迷わせる。ページを開くと、小さいイチゴ、私の・・・となり、悲しい気持ちになるが、最後に「ぜーんぶ わたしの」で、読み聞かせをしている方も、ともどもホッとする。
 幼い子は、大人が思う以上に、物事をよく理解している。いい加減な本を、いい加減な気持ちで読むと、その時は喜んでいても、後で混乱するので、子どもが幼ければ幼いほど、親はまともに向き合って本を選び、本を読んでやりたい。
 とはいえ、真剣に向き合うほど暇がない、と、投げ出しては困る。要は常に子どもに誠実であってほしい、ということ。

 例えばこの本を読んだ後に『3匹のくま』を読めば、ゴルディロックスが1番小さい椅子に座り、一番小さなお椀のおかゆを食べ、一番小さなベッドに寝ているお話が、とても身近に感じられるだろう。親になるまでに、どれだけたくさん読んでおけるかによって、子どもに選んでやることの出来る範囲が決まってくる。子どもがお話を聞いてくれる日々は、すぐ去ってしまう。宝物のような時間を逃さないように、たくさん本を読んでおこう。子どもの本ばかりでなく、面白い本を、手あたり次第。

『あやかし草紙』宮部みゆき作 角川文庫

 しばらく子どもの本が続いたが、まさかその間、本を読んでなかったわけではない。スペイン料理の万里先生からモーニングティーのお誘いのついでに、たくさん本を頂いて、読みふけっていた。この本の他に池波正太郎が2冊と、楽しみに取ってある佐野洋子の分厚い読物が一冊。この宮部みゆきも池波正太郎の一冊も久しぶりの時代小説を楽しむことができた。

 神田にある袋物屋の三島屋で、変わった「百物語」が続いている。普通、百物語というと大勢の人が蝋燭をともして集まり、ひとつ物語をするたびに、蝋燭を一つずつ消してゆく。100人が語り終わると真っ暗になり、何かが起こる・・・、という遊び?だが、三島屋の百物語は、主人の姪のおちかの気晴らしに、と計画されたものだった。万一の用心に控えの間に人がいるが、聞き手はおちかひとり。聞いた話は誰にも言わず、闇に葬る、というう約束で、様々な人が、人生の重い話を聞いてもらって、心を軽くする、という設定である。この一冊には5つが入っている。

 第一話の「開けずの間」は、商家に住み着いてしまった「行き逢い神」の話。自分の恋のために、行き逢い神に願をかけてしまった娘のふとした行いから、身内に次々と不幸が訪れ、願いをかなえてもらうには、誰かの命を差し出さねばならず、家族の命がおどろおどろしく失われてゆく。次男が殺してしまった長男を、お上に店を潰されないために、気の病の娘の命を差し出して生き返らせてもらうが、一度死んだ長男は、ただ呼吸しているだけで死人のまま、という一場が生々しくて怖ろしい。
 控えの間で聞いていた奉公人の髪が白くなって、そのまま抜ける・・・。宮部みゆきらしいというか、3㎝もある分厚い文庫本を、一日半で読んでしまった。久しぶりに、読み応えのある娯楽本だった。

2020年8月21日

池波正太郎著『チキンライスと空の旅』朝日文庫『ル・パスタン』文春文庫

 どちらもエッセー集だが、チキンライス・・・の方は、著者の幼い頃からの思い出、というよりも生活が描かれていて、その頃の時代考証のようにも読める。
 大正2年生まれの池波正太郎は、私より18歳年上?だったわけだから、人生の大半はかぶっているのだろうが、戦争前(第二次世界大戦デス)に成人しているのと生まれただけ、というのでは、大分世界観というか、人生観が違う。しかも私は生まれてから終戦まで、爆撃のない京都で暮らしていたので、戦争は空高く飛び去るたった1機のB29しか記憶にない。「警戒警報発令!」という声がきこえると8畳間に入って伏せることになっていたが、1歳下の従妹が上向きに寝て、大人の人が慌てて裏返しにしていた事くらいしか覚えていない。庭は畑になっていて、夏には麦踏をした写真と、サツマイモのカレーを前に「いただきます」と手を合わせ、まだかしらと、そっと目を開けたところを狙っていたカメラマンにシャッターを押された写真が、多分、毎日新聞に、載った。その頃が一番幼い記憶だが、一生懸命目をつぶっていたのに、ちゃんと幼い子の心理を読んでいるカメラマンが捉えてしまった瞬間とシャッターの音が、その日の新聞の写真とともに、くっきりと記憶に残っている。板塀の節穴から見えていた隣の学校は、ろうあ学校だと
聞いていたが、灰色の制服を着た坊主頭の男の子たちが、いつも畑を耕していて、向こう側からは目玉しか見えていないはずなのに、ある日、しっかりとした顔つきの、今考えればかなりハンサムな日本男児にキッと睨まれて以後、その節穴には近づかないようになった。

 自分の思い出ばかり書いてしまったが、チキンライスに戻ると、40章くらいになっていて、音楽のこと、絵のことから始まって、家族のことが一番多いが、家族を通して時代が感じられる。東京の下町の家族の暮らしは、こんな風だったのかと興味深い。とりわけ芝居の世界も描かれていて、『鬼平犯科帳』中心の池波世界しか知らなかったので、芝居の脚本の方が本職だったと書かれていて、歌舞伎も芝居も、プログラムはずいぶん読んでいるはずなのに、活字を読み飛ばしている自分が恥ずかしい。絵本でさえ、表紙をちゃんと読まない癖があったのだから・・・。
 オリンピック前の日本橋の美しさをはじめ、東京の街並みの粋な様子も書かれていて、そうそう、そういえば、と思い出すことも多い。その中で友人の性格の良い息子が「月夜の晩にいくつもの橋を渡って歩き回っている時の気分の良さときたら・・・」という父親の話に「橋を渡って気分がいいなんて、どう考えても分からないな」と首をひねった、という話に共感した。どちらに共感したかと言えば、どちらかと言えば息子の方で、私の学生時代には、まだ、川風に吹かれながら渡れる橋もあったが、現在では車に隅っこに追いやられ、高いコンクリートの壁で川面も見えない橋ばかりだなあと、思うからだ。

 さて『ル・パスタン』の方は、同じエッセーだがカバーも中身も全然違う。挿絵も著者が描いているが、なかなかお洒落な絵でカラーが多い。ヨーロッパ旅行や、映画、特に洋画の評論が多く、親の世代が話していた女優や俳優のエピソードが次々と出てくる。
 いずれも、あまり考えこまずに気軽に読めるエッセー集で、コロナ期にはぴったりの読み物である。
  

2020年8月23日

『こぶたたんぽぽぽけっととんぼ』馬場のぼる作 こぐま社

 同じ作者と出版社で、『ぶたたぬききつねねこ』というのがあるが、それはクリスマス用?で、最後の「まく」を開けると、たしかクリスマスツリーがあって、パーティが始まるんだったと思う。この本も、中表紙を開けると、見開きに豚と狸と狐と猫がいるが、4匹ともちょっとどん臭い。よくもコう、さりげなくあか抜けない母親世代を描けるものだと、妙なところで感心してしまった。
 しりとりはもう始まっているのだが、次の頁からストーリーが始まり、可愛い「こぶた」が「たんぽぽ」を見つけて、それを「ぽけっと」に飾る。次の頁で「とんぼ」が飛んでいるので、「ぼうし」を脱いで捕まえようとするが、飛んで行ってしまう。その飛んで行った青空に「しゃぼんだま」が流れて、しゃぼんだまを飛ばしているのが「まめだぬき」と、しりとりのことばでストーリーがつながってゆくが、きのこ、仔狐、ネックレス、スケートボード、どろんこ、仔猫、粉、涙、ダイヤモンド、どんぐり、リス、杉の木、キツツキ、恐竜、馬、マイク、車、マットレス、スカンク、靴、釣り竿、鬼、にわか雨、迷路、ロバ、バナナ、菜の花、縄跳び、ビデオ、鬼ごっこ、コアラ、ラジオ、おんぶで終わるが、子ども達は迎えに来たお母さん達におんぶされて、遊び疲れて背中でぐっすり眠っている。子ども達にとっても、お母さん達にとっても、理想的な一日がしりとりで語られている。
 ことば遊びには色々あるが、しりとりが一番単純で心配事なしに、子どもも大人も一緒に楽しめる。特に、子どもと年寄に語彙力をつけるのに良い。この本1冊読むだけでも45、50近い語彙が広がる。果物、文房具、など範囲を限って縛りを入れれば、いくらでも高度なゲームになるが、なにも範囲を決めず、自由に思いつくことばで遊んだ方が、心も頭も豊かに、健康になる。本は語彙を増やすために読むものではないが、本を読めば確実に語彙が多くなる。

2020年8月31日

『あるかしら書店』ヨシタケシンスケ作 ポプラ社

 美味しいお弁当と共に、またしても万里先生に数冊の本を頂いてしまった。「子どもに読まれてるそうだけれど、これは大人が・・・」というコメントだったので「ん?」と思ったら、帯に25万人の小学生が選んだ、とある。うっそだあ、と思う。「子どもの本、総選挙」とやらで選ばれたとしても、それは内容が面白いというのではなく、漫画だから他の本より読みやすい、分かり易い、というより、分かったような気持ちになりやすい、んだろうと思う。
 漫画だから、ではなく、読みやすいのだろうと思う。

実は昨日から血圧が急に上がって、190の110になった。手持ちの薬を10㎜増やして飲んでいる。今朝は3日目で心配していたが、160まで下がった。・・・というわけで、またしても眠り姫病で、現在、ひどく眠い。だから、続きは、また、あとで。