2012年5月 4日

第7回 せせらぎ文庫フェスタ

 今年のせせらぎ文庫フェスタは第7回! 例年通り、海の日の連休、今年は7月14,15,16日の3日間になる。参加してくださる先生、絵本作家の方々など、これも例年、これまでの6回でお馴染みになった方々にお願いしてみようと思う。
 会場と主催は勿論、千ヶ滝西区公民館。MCは昨年に続いて、『アメリカから来た魔女』の
滝本つみきさんにお願いした。他のパーフォーマーも、この「せせらぎブログ」で、次々ご紹介してゆこう。例年のことなので、予定に入れていてくださる方々もいらっしゃるので。

 主に子ども達対象のフェスタだが、昨年好評だった大人対象の「はなそう会」も。今年はより一層発展させたい。今のところ、テーブルを小人数に分けて、グループでおしゃべりする形式を考えている。

 それよりも大きな変化は、小学生から中、高生に成長した子ども達を、スタッフとして中心にすえて、子ども達の活躍の場にしたいという試みである。

 より詳しいことは、また、明日、か、明後日か・・・・・

2012年4月11日

『ふくしまからきた子』松本猛・松本春野作 松本春野絵 岩崎書店刊

 4月7日はなんと同級生の結婚式だったので、丁度披露宴の最中で、残念ながら、FM軽井沢の「魔法使いの本棚」に電話参加も出来ないので、その代わり、特別の一冊を、宮尾さんに送りました。

 この本は、せせらぎ文庫フェスタでお馴染みの松本猛さんが、お嬢さんの松本春野さんと一緒に作った絵本。 4月1日に発売したばかり!

 松本猛さんは岩崎ちひろのひとり息子だから、春野さんはちひろの孫。この絵本が、「いわさきちひろ」と同じ水彩画の、柔らかい筆遣いでありながら、ちひろとは一味違ったピリッとした鋭さが感じられるのは、テーマが東日本大震災の、しかも原子力発電所の事故があった福島から来た女の子を、主人公としているからかもしれません。

 福島から来たサッカー好きの女の子「まや」は、隣に住むサッカー少年「だいじゅ」と、話をするようになります。自分はサッカーで日本代表になる、というだいじゅにまやは、福島に居る友達は、まだ放射線量が高くて外で遊べないから、私はサッカーやめるってきめた、というのです。サッカーが上手なまやとボールを蹴りたいだいじゅは、放射線が何なのか、どうすれば放射線がなくせるのか知ろうとして、大人たちに尋ねます。

 私は個人的な意見として、原子力発電は、いつの日か、安全管理を完全にした上で再開しなければいけないと思っていますが、それはそれとして、この絵本の問題提起を重要なことだと思います。  
プロメテウスが神様から火を貰ったとき、森林火災を懸念したかもしれないのに、ちゃんと人々に「火」を伝えてくれたからこそ、人類が絶滅せずに生きてこられたように、原子力という新しいエネルギーを、爆弾と言う愚かな物に使ってしまったからといって封印するのではなく、安全に正しく使う方法を見つけないと、人口の増えてしまった人類は、人間として尊厳を保って生きる事はできないのではないでしょうか。そんなことを、話し合いたくなる絵本です。

 この絵本の作者である松本猛さんは、ご存知のように、震災以前から、原子力発電についても、日本のエネルギー政策についても勉強していたのですから、大人の目で見て文字に書いてしまいたい思いが強かったに違いないのに、子どもに判断を強いるのではなく、自分の気持を行間に残して、心に疑問符を浮かべさせようとしています。そこに作者の優しさと真剣さが、伝わってくるのです。
巻末に、「放射能」などのことばの定義を記してあるのも、問題を提起し、議論を促すためには、とても大切なことだと思います。

2012年3月14日

世界の日本人 ジョーク集 早坂隆

 FM軽井沢の3月11日の「魔法使いの本棚」では、このジョーク集を紹介した。我が家には息子達が買ってジョーク集があちこちにあって、これもいつか誰かが、軽井沢の「田の詩荘」においていったものだが、これまでのジョーク集とは、一味違っている。

 著者の早坂隆はルポライターで、世界のアチコチで暮らしたり歩いたりしているようで、その体験からくる見識を述べた上で、関連したジョークを載せている。従ってそのジョークの背景や人間関係が良く分かり、ジョークそのものもさることながら、前後のコメントが、とても興味深い。
 
 世界の中の日本人が言われているジョーク集といえば、眼鏡をかけてカメラをぶら下げた旅行者は日本人だ、という類だと思いがちだが、もう少しアカデミックなので、中高年の男性にもお薦めしたいし、社会から遠くなりがちの主婦にも読んでほしい。

 『世界の紛争地 ジョーク集』と『世界 反米ジョーク集』を出したところ、「日本人を扱ったジョークを」と言う希望が多かったので書いたという。但し、書かれたのが2005年11月なので、現在とは日本の状況が少し違う。勿論東日本大震災の以前だし、民主党政権の絶望的な政治も始まってなかった。

 この頃の「日本」のイメージは「ハイテクの国、お金持の国」で、パリの画廊に立寄った日本人が、ゴッホやピカソを手当り次第買い込んで「よし、クリスマスカードはこれくらいでいいか」といったような話や、日本製品の不買運動のデモで「Buy American」のプラカードに混ざって、日本人が「Buy America」というプラカードを掲げていた、というような話がつまっている。

2012年2月16日

『ぼくは12歳』 岡真史 筑摩書房

 2月12日のFM軽井沢は、東京の自宅から、電話での参加だった。丁度、中学受験が終わった時期で、12歳という傷つきやすい年齢の少年少女が、受験戦争といわれる状態に置かれているのが気になって『ぼくは12歳』という詩集をとりあげた。

 私がこの本と出合ったのは、初版が出た1976年当時だった。作者である岡真史が12歳でその命を散らしたこと自体がニュースにもなり、翌年発刊されてすぐ手にしたのではあったが、決して亡くなった少年の心が覗きたかったからではない。
 新聞で紹介(多分)されていたリンゴの詩の、芯のまわりにあるくろいところは 蜜であるのかないのか・・・・とかいう一行に何故かひどく興味を惹かれて、文庫本好きの私が、珍しく単行本のこの本を買ってしまったのだった。

 読んでみると件の詩は、潔癖症でちょっとでも傷んだ果物は手にも取らなかった真史少年が、黒くなっているのは糖分が集まっているからという母親の説明を、信じようか信じまいかと躊躇っている詩であった。
 だから私はこの本を、夭折した少年の詩だから、という理由で評価してほしくない。

 子どもの書いた詩は純粋な心で書かれているからと、詩の形を成していないような文も詩として並べられている本が沢山あるが、この詩集はそんなレベルではなく、幼い頃からたくさんの本を読み、豊富な語彙を自由に駆使して、透明な彼の心のままを詩にしている。キラキラと、そう、冬の軽井沢でも時折見ることの出来るダイアモンドダストのように、空気の凍るようなキラメキをことばにしている。

 たまたま岡真史の父親が、作家で外国人であった為に、人種差別だとか自殺の原因はとか、余計な興味で彼の詩が読まれるのは残念でならない。

 子どもから大人に変わってゆく12歳という微妙な年齢の心の揺れを、大人のことばで伝えているこの詩集を、まず、中学生の子どもを持つ親達に、そして中学生から高校生になろうとする子どもたちにも、余計な予備知識無しに味わってほしい。

2012年1月30日

『もひとつ ま・く・ら』柳家小三治・『こども落語』燕路

 1月29日のFM軽井沢、「魔法使いの本棚」では、上記の落語の本を紹介した。
『もひとつ ま・く・ら』は勿論『ま・く・ら』の続編。講談社文庫だが、これは単行本の文庫化ではなく、文庫オリジナル、というところが文庫本ファンには、また嬉しい。
 落語の本、といっても『ま・く・ら』の2冊は、「まくらの小三治」と異名をとる小三治の、あちこちの会での枕(枕は、落語に入る前に演者がつなぎに語る由なし事です・・・念のため)を集めたもの。「こういう話がしたいから来ているんで、べつに落語がやりたいわけじゃあない。そうでもないか」などと本人も言っているが、ときには枕が長すぎて本題の落語が消えてしまうらしい、等と巷の噂もあるほど。
 言われるだけあって、読物として面白い。どうやって、なんと言う落語につなげるつもりなのだろうと想像しながら読むのも楽しいが、ご本人は落語に関係なく?言いたいことを言っているかに見える。子どもの教育の話に我が母校の名前が出てきてニヤリとしたが、語学の話、人生の歩み方など、納得できる固い話、普段、気恥ずかしくて、周囲の人には話せないまじめすぎる話を、粋な語り口で話しているのが、文字になっていて嬉しい。読み終わって胸がすっとする。

 その小三治が、落語界に入るにあたって、弟子入りの世話になったのが燕路さんだと書いてあって、驚いた。驚ろくにはあたらないのだろうが、この燕路さんは、せせらぎ文庫フェスタで、さんざんお世話になっている瀬名恵子さんのご主人。早くに亡くなったのですが、良い方だったのだなあ、と、故人をしのびました。

 故人といえば、昨1月29日は大学3年で亡くなった親友の命日。軽井沢の雪の中で、今年も墓参に行かれなかった、と偲んでいました。
 高校卒業の寸前から、急に親しくなった4人組で、デカ、ペチャ、ポンという3人の男の子と、タンコという女の子の4人組。ペチャも同じ年に亡くなったのですが、2人がいなくなるまでの数年間、みんな、世界一幸せな青春を過ごしました。
 高校では、クラスにデカペチャポンを囲んで7人の侍がいたので合あわせて10人、女子はもともと14人しかいないので、全員が纏まっていて(2,3人遊ばない人もいたけど)10人は我が家に泊まりにきたりしていました。
幸いデカペチャポンもタンコもあちこちに友達が多く、早稲田、学習院、慶応、トン女と4人とも違う大学だったので、各々の学校で4,5人ずつの仲良しと10人くらいのグループがいて、声をかけると、すぐに50人のパーティが成立します。歌ったり、踊ったり、夜を徹して喋ったり、映画を作ったり・・・。軽井沢でも、偶然、ペチャも私も千ヶ滝で歩いて5分ほどのところに家があったので(ウチは貸別荘でしたが)、各々の家に分かれて泊まり、どちらかの家に持ち寄って食事をしたり、本当に健全で、精神的にも充実した青春でした。
 その輪の中心に居た2人が続いて病気で亡くなったので、私たちの高校のクラスは、今でも仲が良すぎるほど良くて、クラス会が続いています。

 ああ、本の話でした。燕路さんの『子ども落語』はポプラ社から大型の文庫本?で4巻まで出ているのですが、子ども向きにたくさんの噺が紹介されていて、とても良い本なので、改めてご紹介します。

2012年1月 9日

渡辺茂男先生

 昨日のFM軽井沢では、渡辺茂男訳『山の上の火ーエチオピアの昔話』ジーシー・プレス を紹介した。
 アジス・アベバにすむアルハという奴隷が、ハプトムという主人に、火も、毛布もなく、一晩、裸で寒い山の上に立てば土地と家と牛とヤギをやる、といわれて村の古老に相談し、古老が一晩中、向かい側の山の上で焚く火を見つめて寒さに耐え抜く。ところが主人は火を見ていて耐えたのだから、お前は火を使った。約束を破ったのだから、褒美はやらない、と取り消した。そこで古老は、再び一計を案じ・・、という物語の絵本。

 勿論、佐野昌子のおおらかな絵も含めて、この絵本の魅力も語りたかったし、遠い山の上の火を見つめているだけで、そこで自分のために火を焚いてくれている人がいるという思いだけで、寒さを耐え抜くことが出来たというこの物語の第一のテーマについても語りたかったが、私がこの本を取り上げた本当のきっかけは、数年前に亡くなられた渡辺茂男先生の思い出を語りたかったからだと思う。

 1977年に初の国際児童文庫であるだんだん文庫を設立し、1979年に国際児童文庫協会を創設して、たった一年で、発案者でありパートナーだったミセス・ダンがモロッコに去ってしまったとき、福音館の松居会長、当時文部大臣だった永井道夫先生と共に、名実ともに支えになってくださったのが、渡辺先生だった。この先生方の教えがなかったら、国際児童文庫協会を軌道に乗せることは出来なかった。

 それまで、ただ一冊の本として、次々と良い本を紹介し、その中に渡辺先生の作品が沢山含まれていることに気付いてはいたのだが、しみじみと先生の翻訳、先生の絵本の素晴らしさに本当に気付いたのは、亡くなられて、懐かしさでその作品を、落ち着いて読み返せるようになってから、つまり、つい最近なのかもしれない。

 沢山の本の中から良い本を選び出すのは、そんなに難しいことではないが、心に感じたその本の良さを、的確にことばに表すのは、とても難しい。
 本を読む子ども達、子どものために本を選ぶ大人達の心に響くように、これからも、ことばを選んで、学びつつ、ライフワークを続けてゆきたい。

2012年1月 2日

お正月の読物

 あけまして おめでとうございます。昨年は怠けがちで、ひと月に1回くらいしか更新できませんでした。今年は心を入れ替えて、毎週、せめてFM軽井沢で紹介した本は、必ずブログに載せるようにしたいと思います。・・・勿論そればかりでなく。

 今年は元旦が日曜日でしたので、ちゃんと、軽井沢駅さわやかハットの2階にあるFM軽井沢に参りました。
 絵本を一冊と、文庫本を4冊抱えていったのですが、なんと途中で地震があり、文庫本が3冊しか、紹介できませんでした。

 まず絵本はこぎつねダイダイのシリーズから『ゆきゆき どんどん』西内ミナミ作、和歌山静子絵 ポプラ社。珍しく作者に連絡が取れて、西内・和歌山コンビの他の作品も紹介しつつ、ミナミさんの文章も読みながら、と張り切ったのですが、お正月は土曜、日曜のレギュラーから年頭のメッセージを、ということで、あまり時間が取れませんでした。
 せせらぎ文庫の本棚から、お正月休みに相応しい一冊を選んだのですが、お兄さん狐のダイダイが妹と遊びたくなかったけれど、嫌々一緒にそりに乗っているうちに妹が迷子になり、ようやく見つかって、雪の中をおんぶして歩きながら、「ほんとうによかった」と思う、という物語。和歌山さんの描く子狐のオレンジ色が暖かくて、コタツにあたりながら、子どもたちに読んでやりたい絵本。

 文庫本は『日本ジジババ列伝』清水義範著 中公文庫 おじいさんの思いがさりげなく描かれていて、高齢者も、中高年も、穏やかな気持で読める。

 『一豊の妻』永井路子著 文春文庫。歴史の教科書とは違った一豊の妻が描かれていて面白い。他に正綱の妻、お江、など6つの物語が連なっている。

 『散りぎわの花』小沢昭一著 文春文庫。役者であり、「変哲」という俳号をもつ著者が、主に俳句に添えて書いている。親友である江国滋への思いもしみじみと語られているが、「夕立や 小言もにぎる江戸かたぎ」となじみの寿司やを詠んだ句のエピソードも、彼らしい軽妙な語り口で綴られている。

 地震のおかげで紹介できなかったのは、池部良の書いた『風がふいたら』。山本夏彦が解説に書いているとおり「少々エロチックではある」が、あの飄々とした池部良がかいていると、そんな感じもなく、さらっと楽しく読める。

 以上5冊、お正月休みに相応しい読物が、せせらぎ文庫には沢山あります、というご紹介でした。
 毎週土曜日の11時から14時まで、なるべく私がおりますので、お気軽に遊びに来てください。今年は、大人の方達に、沢山読んで頂きたいと思っていますので、よろしく。

2011年11月30日

11月26日のFM軽井沢「魔法使いの本棚」

 たまには真面目に、というか、いつも真面目だが、この日は日本の教育について、感じるところを述べてみた。というと大げさだが、大切な教育の三本柱「知育、徳育、体育」野中で、日本では「知育=教育」となって、徳育と体育が置き去りにされている。道徳教育の時間は「教育テレビ」のそれなりの番組を見せることでお茶を濁され、体育は球技等のスポーツをやれば良いのだと思っている先生が多い。
 体育は読んで字の如く、体を育てることであって、走る、飛ぶ、投げる、の技術を身につければ良いというわけにはいかない。知育、徳育で育てられた優れた頭脳と精神を包む、「カラダ」を作り上げなければならない。MENA SANA INCORPORE SANO(健全なる精神は健全なる身体に宿る) と言うではないか。

 優れた身体をつくるのには、まず、身体がどういうものか知らなければならない。ここで取り上げたのは、日本の教育の中で、ほとんど目隠しされている性教育についてである。
せせらぎブログなのだから、勿論、本の話だ。
 " What's Happening to My Body" と " My Body Myself (For Girls)"の2冊をとりあげた。いずれも Lynda Madaras & Area Madaras の著書で、他にFor Boys もある。
日本語の本を探しているのだが、こんなに細かく、思春期の子どもの疑問に答えてくれる本が無い。親にも先生にも相談できず、ひとりで悩むティーンエージャーのために、各図書館に一冊、こういう本は是非、必要である。

 英語では読めない、と、大人は思うかもしれないが、中学生の英語の能力があれば、充分に読めるし、興味に惹かれて、読めてしまうものだ。これで英語の読解力もつけば文字通り、一石二鳥。
 文中には詳しい挿絵、図が示されており、呼称のスラング一覧などもあって、大人にも勉強になる。何よりも思いやりのある文章で、胸の大きくなる時期、体毛の生える時期、メンスの説明などと共に、標準より遅れたからといって、心配は要らないということも書かれている。この程度の医学知識は、親もきちんと把握して、性的にいびつな考えを持った子どもに育てぬよう、心がけたいものである。
 

2011年11月25日

『ぼくはブルドーザー!』こぐま社

 11月20日のFM軽井沢「魔法使いの本棚」では、昨日の七福神と一緒に、この、『・・・ブルドーザー!』を紹介した。

 私たちが、つまり国際子ども文庫の会が、隔月(毎月だったのに、昨年から隔月になってしまった!誰かの陰謀に違いない)に月刊『海外子女教育』誌に4冊ずつ、子ども向けの良い本を紹介しているのだが、日本の季節や行事にあうように、紹介する本の季節感を大切に考えて、本を選んでいる。
 「子どもの本棚」という、たった1ページなのだが、沢山出版される子どもの本の中から、あるいは古くから愛読されている歴史的な名著の中から、たった4冊を選ぶのはムズイ!
この本も、この本も、という中から、少なくとも今年のこの季節には紹介できない本を、切り捨てていくのは、時には辛い作業でもある。雑誌一冊、全部子どもの本シリーズにしてくれたとしても、海外にいる子どもやその親達に、伝えたいことは語りきれず、紹介したい本も山ほどある。

 この『ぼくはブルドーザー!』も、季節なら4月ごろ、幼稚園に入ったり、学校のクラスが変わったりして、まだ心の許せる友達の出来ない季節に、『海外子女教育』誌で紹介したい本である。
 海外の子どもに本を紹介するとき、一番心を配るのは「正しい日本語で書かれているか」という点で、難しいを「ムズイ」などと書いている本は、即、切り捨てる。国内で、日本人家族の中で読む分には、「チョー」面白くても、「たべれない」お菓子の話でも、他にたくさんの本を読んでいるなら一向に構わない、と、私は思っている。それは、悪い日本語、という毒が、良い本という蒸留水で薄められるからである。何でもいいから、沢山本を読んでもらいたい、と思う。
 しかし、海外では、その本が、例えば戦争に関するただ一冊の本になってしまうかもしれない。その子にとって、その本が戦争における日本の姿を語るすべてになってしまう。
だから、私たちが『海外子女教育』に本を選ぶとき、その一冊が、ただ一冊になってもよい本しか、選ばない。

 そこでこの『・・・ブルドーザー!』だが、コンセプトが良い。男の子が、いろいろな「働く車」になって、お砂場にお城を作る。ショベルカーも、クレーン車も、たしかに人間の動きが基になっている、と納得できる。ザクザク、ゴロゴロ、といった擬音(オノマトペ)が多く使われているのも、海外の子どもには助けになる。外国語の擬音では、日本に帰ったときに戸惑うからである。

 そんな理屈も、最後におとうさんが現れるあたりから、どうでもよくなる。お父さんがリフト車になって、男の子をぐいと持ち上げ、ガシャンと肩車にはめ込んで連れて帰るからである。この最後の数ページで、読んでもらっている子ども達は、幸せ一杯な気持になるに違いないから。

2011年11月24日

『どんぶらどんぶら七福神』こぐま社

 11月20日のFM軽井沢で紹介した2冊のうちの一冊。その時も話したのだが、この本が届いたのが、丁度お茶の友人からお祝い事の記念に七福神の金太郎飴をもらったあとだったので、なんだか続いて良いことがありそうで嬉しかった。

 そこで早速この本を紹介しようと思い立ったのだが、実はちょっとためらった。本に問題があるわけではない。私の発音に問題がある。父の実家は神戸。父母の本籍は両家とも山口で、つまり発音に関西訛りがある。私自身は4歳まで京都で育ってはいるが、幼稚園から東京で、親も標準語だったから、自分は正しい日本語で喋っている、という自信があった。
学生時代、地方から出てきた友達を、一々アクセントを治して歩いて、「ちゃんと日本語を喋りなさいよね」と嘲ったものである。ヤナ奴だわね。

 で、どうして「七福神」でためらうかというと、母は東京生まれの東京育ちで「ひ」と「し」があぶない。父は関西弁が入っているから「七」は完全に「ひち」と発音していた。
若い頃の私は、外では何のためらいも無く「しち」と発音し、親と話すときは「ひち」であったと思う。
 イギリスで育った子どもがアメリカ人と話すとき、無意識のうちにアメリカ英語で話そうとする。これは運動神経なのだそうだ。そして、いまや250歳となった私は、この運動神経が鈍くなってきて、「七」という文字を見ると、一瞬ためらう。「ひち」と読んでしまうことはほとんど無いが、ぐっと息を詰める一瞬が怖い。と、まぁ、それほどのことでもないから、落ち着いて紹介することにした。

 『どんぶらどんぶら七福神』はみきつきみ作 柳原良平画だが、作者には始めての絵本、柳原良平はその昔、サントリーの「アンクルトリス」というキャラクターで有名だが、この本が80歳の記念だと、巻末に書かれている。うーん、色々おめでたい。お年玉に添えて、お祝い事のちょっとしたプレゼントにとても良い。ちなみに1000円+Tax

 筆名が回文になっているのでも分かるように、作者のみきつきみはコピーライター。七福神の一人一人が数え歌で、神様の役目が分かるように、楽しく紹介されている。

同じこぐま社の『ぼくはブルドーザー』も紹介したかったけど、長くなったから改めて。


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