せせらぎブログ

2007年の春正式に名前を決めた「国際子ども文庫の会(略称ICBC;International Children's Bunko Circle)」の初仕事として、軽井沢千ヶ滝西区の公民館に「せせらぎ文庫」を開設するお手伝いをしました。せせらぎ文庫の特徴は、子どもと両親と祖父母の3世代が一緒に楽しめる本揃えで、このブログではこれらの本の紹介と心に浮かぶヨシナシゴトをそこはかとなく綴ってゆきたいと思っています。 小林悠紀子

2017年3月23日

『ずーっと ずっと だいすきだよ』評論社

 これは、3月19日、FM軽井沢で紹介した絵本。初版が販売された頃、すぐに読んだし、手元にもあったのだが、多分、これまでに紹介はしていない。一つには、同じ評論社の『どんなに きみがすきだか あててごらん』がとても好きで、そっちを紹介してしまうので、こちらを紹介し難かったということもある。

 ストーリーは、犬好きの人なら、一度や二度は誰でも経験していることで、可愛がっている犬が年を取り、飼主は死期が近いのを知りつつ、より心を込めて世話をするが、逝ってしまう。
多くの本は、この辺りで終わるのだが、この本には続きがあって、主人公は、周りの人達とボクは違う、だって「ずっとずっと大好きだよ」と毎日ことばで伝えていたから、きっと愛犬もわかってくれただろう、と自分で自分を慰めるのである。

 絵本に何か「教え」を求めるなら、この本は「ことばに出して、心を伝えましょう」ということなのだろうが、私は、この本を読むたびに、もっと違うことを考えてしまう。

 相手の死が近いということを知っていて、それを知っているということも知られていて、その人の病床を見舞うとき、何といって慰めればよいのだろう、ということである。

 私が22,3歳の頃、親友が2人続けて亡くなった。1人目はお洒落だったから、痩せすぎた自分の姿を誰にも見せたくいないと、1年余り、誰も見舞うことはできなかった。亡くなる何週間か前に電話があって、美味しい店があるから直ったら喰いに行こう、貯金しとけよ、といわれたので、きっとスグ良くなる、と思っていた。亡くなった時、枕元に私の宛名を書いた白い封筒が置いてあったという。

 そんな思いをして半年たったころ、私のマネージャーを買って出てくれて毎週会っていた2人目の親友が入院した。実は中学のころから病身で、医者に迫って自分の寿命を訊き、覚悟していた。だからやりたいことを全部やっておくんだと、積極的に生きていた。もうとっくに宣告された寿命を過ぎ、検査値はあり得ないと医者を驚かせるほど、悪くなっていた。見舞いたいと思っても、かける言葉が思いつかない。何度か病院の前まで行って、そのまま帰ってきた。もう会えなくなると言われて見舞うと、「ちっとも来ないじゃないか」といわれ「忙しいのよ」と返事して「今度はちゃんと時間つくって来るわ」と約束して、それきりになった。

 お互いに死期を知っていて交わすことばを覚えたのは、母が癌だと宣告された時だった。その頃はまだ癌は本人には知らせなかったから、母が家族よりも先に知っていたのは、カルテの英語だかドイツ語だかが分かってしまったからだった。「慰められるのが嫌だから、私が知っていることを誰にも言わないで」と母は言った。だから私も慰めなかった。
唯、1日に1回必ず母を笑わせよう、と決心した。ゲラゲラ笑わなくてもいいから、心の中で、にっこりするような話をしよう!兄が私を母に会わせないようにしたので、私は毎日電話をかけて、その日あったことの中から、母を喜ばせるような話をした。母が亡くなっても何年かは、あ、今日はこの話をしよう、と、楽しい話を心でおさらいする癖が消えなかった。

 というわけで、この本の教訓とは、思いが少しずれてしまう。
この主人公は、ことばをかけることで他の家族と(犬への愛情の)差をつけるのだが、誰よりも君が好きだよとことばで言わなくても、黙ってそばに居るだけで、気持は犬に伝わったに違いない。でも、それでは「この絵本はこう言っているのです」なんて言い方はしないにしても、こういうストーリーです、というときに、一瞬つまってしまう。

・・・で、なかなか紹介できなかったけれど、子どもにとっては、大好きな犬が死んじゃうこともあるんだ、と死に向き合うだけで、充分な体験で、実際にそんな悲しい体験をする前に、耐性をつけておくところに、読書の大切さがある。それに作者であるハンス・ウィルヘルムは絵も描いているのだが、暖かく、優しい筆で、年を取って太りだした犬の、膨らんだお腹がすごく可愛い。理屈を言っていないで、子どもを膝にのせて読んでやりたい本。

2017年3月 1日

『「独りバー」はこわくない』中央新書ラクレ

 副題に「カウンター初心者用バイブル」とある。たしかに、この本を持っていると、どんなバーでも、臆することなくカウンターに座って、バーテンダーとことばを交わそうが交わすまいが、楽しいひと時を過ごせるに違いない。

 でも、忘れないうちに書いておくけど、女性の「独りバー」は基本的に薦めない。特に外国では、みっともないし、危険でもある。女の子は成人する前に、必ず自分の酒量を知っておくこと。家庭で健全に、ビールなら何杯、日本酒なら何合、ウィスキーなら・・・と、色々なお酒の自分のリミットを知っておくこと。未成年の飲酒は法律で禁じられているが、これは飲酒ではなく、アルコール飲料の実験であり、成人になってからでは、断れない場合に危険なことになりかねないのだから。そして成人になったら、まず、家族とバーに行って、自分の酔い方を知っておいてほしい。ぼうっとなったり、眠くなったりする人は、親しくない人とは飲みに行かないこと。

 とはいえ、バーに行っても飲まなければよいわけで、一杯のカクテルで、何時間くらい酔っぱらいの相手ができるか、もちろん自分が楽しみながら、という技術、つまり話術を身に着けるには、この本はとても役に立つ。

 先ず、基本的なお酒の銘柄が22種類、的確の説明されている。例えばスコッチならカティサーク、ジョニーウォーカー、オールドパー、グラウス、ワールドターキー、山崎等。スピリッツなら、ビーフイーター、モルガン、スミノフ等。それぞれに名前の由来や様々なエピソード、カティサークは紅茶を運んでいた美しい帆船である、とか、ラム酒は海賊の好んだお酒。モルガンは海賊キャプテン・モルガンの名前である、と聞くと、どれもこれも、飲んでみたくなるし、もちろん洒落た飲み方等々の話題が添えられている。

 コラム欄もあり、日本で初めてハイボールを飲んだ女性は、唐人お吉である、とか、酒の肴とかつまみ、があるのは日本だけ等々。文学や絵画とのかかわりもあり、どのページを開いても一区切りが短くて、電車の中で読むのに最適。スマホをのぞき込んでいるより、本を読んでいる方がずっとかっこいい。ポケットに入れておいて、繰り返して読みたくなる本である。

2016年12月23日

『春の日や 庭に雀の 砂あびて』 偕成社

 「E.J.キーツの俳句絵本」という副題がついている。表題の一句は鬼貫の作だが、他に丈草、蕪村、子規など7名。23句の中で、小林一茶の句が9句もあるが、どれも私の知らない句ばかり・・・。古池も、お馬も、やせがえるも出てこない。一茶の句集も読んだはずなのに、記憶にない句、しかも「私この句好き!」と言いたくなる句ばかりである。

 冒頭が "朝やけがよろこばしいか蝸牛" 一茶 A red morning sky, For you, snail; Are you glad about it ? 「このあかく染まった朝の空 きみのだよ かたつむりくん うれしいかい?」 と英訳と、さらなる日本語訳が付いている。因みにリチャード・ルイス編 いぬいゆみこ訳 となっているのだが、英訳がだれなのか、よくわからない。巻末に多くの英訳俳句集の書名と訳者が載っていて、編者のルイス氏が英訳ごと拾い上げたのだとある。いずれにしろ、外国人にこんなに俳句のファンがいたとは知らなかった。具体的に書名を並べられて、しかも、余計なことにとらわれずに良い句が選ばれているのを見ると、その底辺の広さを思って、感心してしまう。

 キーツの絵も素晴らしい。俳句というと墨絵を思ってしまうのだが、例えばこのかたつむり君、見開き一杯の朝焼け色の片隅に、細い枝の上で首を伸ばしている蝸牛が描かれている。その鮮やかな色遣いがありながら、俳句との違和感がないのは、キーツが、どのページにも、日本画の味わいを取り入れているからだろうか。例えば墨絵風の影絵であったり、山の緑が唐草模様であったり。

 詳細に読んでゆくと、その英訳や、英訳の日本語訳や、絵の雰囲気が、元の句と微妙にずれているものがあって面白い。決して間違いではないのだが、日本人はそう感じているのではないのよ、とつぶやいてしまう。うーん、ルイス君の方が正しいのかなあ・・・。

 "生きて居るばかりぞ我とけしの花"一茶 Just simply alive, Both of us, I And the poppy. 「生きているんだ ぼくも けしの花も」という句に、あかいけしの花をもって、とんで歩いている小さな子どもの影絵。
「生きているばかり」ということばを、どう感じるかの問題なのだが、その「無」の世界を、私はもっとペシミスティックにとらえてしまう。少なくとも、花を手に駆け回る子どもではなく、庭に咲くけしを、黙って見つめる女であるような気がする。

 素直に子どもと、あるいは家族で楽しむのにもとても良いが、おとなが一人で色々考えながら頁をめくるにも良い絵本である。

 

2016年11月20日

『茶経』陸羽著 講談社教養文庫

 訳と解説は「布目チョウフウ」。潮という字とフウはさんずいに風。残念ながらこのWindowsでは出てこない字で、漢字の作り方はわからないので、カタカナで我慢してください。なぜ最初から解説者か、というと、沢山出版されている『茶経』の中で、この布目氏の解説が、私には一番良くわかるし、この一冊は読む人の興味に応じて、2重3重に色々な読み方ができるように工夫されている。

 まず『茶経』そのものが一文ずつ書かれ、「訳文」が逐語訳で並べられ、次に「語釈」として、一つ一つの単語の意味と来歴が、丁寧に述べられている。
例えば、最初の行は「茶経上の巻、キョウ陵の陸羽撰す」とあるが、語釈では「キョウ陵は群名、県名」とあって、その場所の説明。「撰」については「書物を著作すること」とある。この説明がないと、私のような慌者は、「ああ、陸羽が選んだのね、つまり監修ってこと?」等と、勝手に思い込んでしまう。この語釈のお陰で、漢文といっても漢詩を返り点付きでも読めるかどうか、といった程度の私でも、少なくとも誤解せずに、読み進むことができる。
 
 「語釈」の後には「校異」とあって、更に細かい、そのことばの来歴などまで説明されているが、私の場合・・・・読み飛ばした。「語釈」の中には植物の名前も多く、それには一つずつ、図鑑の様な絵と写真があり、更にその図にも、出典などの細かい由来が書かれている。

 と、11月16日の茶英会の「Book of Tea」の発表の参考書として使って以来、少しずつまじめに読み返してみると、なるほど、やはりこの本はお茶のバイブルと呼ばれる価値がある。但し『茶経』そのものではなく、布目氏の訳と解釈があってのことである。20日はFM軽井沢で怖れ多くもこの『茶経』を紹介し、帰りにせせらぎ文庫に行ったので、心底くたびれた。一応ここまでで公開して、少しずつ書き加えてゆこうと思う。とても一度には書ききれないから。・・・とここまで28日に更新。

2016年11月 7日

『十二単衣をきた悪魔』内館牧子 幻冬舎

 6日(日曜)11時10分頃からのFM軽井沢「魔法使いの本棚」で紹介した本だが、限られた時間の中では、なかなか思うことは全部話せない。いつも、本当はもう少し深いんだけど・・・と思いながら、適当なところで、えーとお.おススメです、なんぞと終わってしまう。まあ、作者が何日もかけて書いたものを数時間で読んでしまうのだから、10分くらいにまとめて話せるものなのかな???

 久しぶりに「せせらぎブログに書かなきゃ!」と思ったのは、勿論面白かったからだが、とびとびに読んでいた源氏物語が、久しぶりに、ひとつの物語につながったような気がしたから。

 私が初めて『源氏物語』を通しで読んだのは中学生のころ。もちろん?古文ではなくて、谷崎の現代語訳、いわゆる『谷崎源氏』が全11巻、揃っているのを見つけたからだ。今の人達には谷崎文学も古典に入るのかもしれないけれど、明治文学は、今の日本語をちゃんと話している人なら、自然に読めてしまう・・・はず。それなのにどうして、彼らは難しく感じるのだろう。また、話が横道にそれてしまいそう。

 主人公の「雷=ライ」は50社を受けて内定を貰えないダメ人間。外見も、性格も、実力も人並み以下、従って女の子にもてない、という設定であるらしい。ところが弟の「水=スイ」はハンサムで、よく出来て、性格も優しい。仲の良い兄弟だが、雷は常に弟にコンプレックスを抱いている。

 この雷が、派遣の仕事で製薬会社主催の『源氏物語』のイベント会場の設営に雇われ、帰りに来館者用のパンフレットと、源氏物語のあらすじ、登場人物に相応しい売薬、などのはいったビニール袋を貰う。家の灯が見えたころ、家では弟の水が京都大学に入ったお祝いをしていると聞き、家族が雷を気遣って、弟の志望大学さえ知らせずにいたと気付く。帰り道にいつの間にか枝道が現れ、雷はその道に踏み込み『源氏物語』の世界に入り込んでしまう。

 連れていかれたところが、自分が派遣で設営させられた弘徽殿にそっくり。そこで弘徽殿の女御と一宮に「陰陽師」として仕えることになり、ビニール袋の薬が役に立ち、周囲から認められる。大人しくて控えめな一宮に、腹違いの桐壺の局に光源氏という輝かしい弟がいるのを、わが身に引き比べて同情し、一宮母子の味方になる。20数年後に現実の世界に戻るが、浦島太郎と反対に、派遣仕事の帰り道に戻り、時間は少しもずれていない。しかし20年間を過ごした源氏の世界は身についていて、大学院に入って古典を極めようという結末が嬉しい。

 源氏を読んでいない人に『源氏物語』を読んでみたいと思わせるだろうが、そっちは、『あさきゆめみし』からでも、読んでもらえばいいし、源氏を斜め読みしかしていない大部分の人達に、ちょっと読み返して確かめたい、フーン、ほんとにそう書いてあったっけ?と思わせる本である。文庫本、定価770円也。

2016年9月 9日

『手塚治虫小説集成』立東社

 先月、千歳船橋にある、私の好きな不思議な本屋さんで、この本を見つけた。小田急線の「千歳船橋駅」から、京王バス乗場に向かう遊歩道の左側にあって、30年位前に仔犬だった「茶阿」をもらった「八兆」という立ち食いソバ屋のス2,3軒先にある。この道は30年以上前から、毎月何回か通っていたのに、たぶん昨年あたり、突然目につくようになった。入って見たら、素晴らしい本ぞろえなので、感激して、以後、通るたびに覗いて、数冊ずつ買ってくる。

 「千歳船橋書店」とかいう、どうでも良い店名なのだが、岩波文庫とか福音館書店のように返本できないという噂の、しかし優れた本を沢山出版している出版社の本がたくさん置いてあって、高校を卒業して以来、なかなか出会えなかった、懐かしい本の背表紙を眺めることができる。他の書店では、たまに置いてあっても、さも売れ残りだという顔でいつまでも並んでいる岩波文庫が、行くたびに並びが変わっているのは、本当に売れているのか、店主がマメに入れ替えているのか・・・・。高校生時代に読みそびれた本を見つけると、懐かしくて、つい手を伸ばして買ってきて読んでしまう。

 このあいだ「どうもボク、好きな本を選ぶ能力が衰えてきちゃったみたいなんですよ」と嘆いていた人がいて、「それは、軽井沢に本屋がないからよ」と答えたのだが、やはり本は本来、書店(BookOffではなく)で、買って読むもので、図書館と本屋は違うのだということに、軽井沢の人達は気づいてない。軽井沢という町は、「文化」はなんでも無料で手に入れられる町で、言い換えれば、無料で手に入る文化しかない、ということなのだが、町の人達はこれに気付いていない。
 
 ミヒャエルエンデの『モモ』は、時間どろぼうの話だが、「文化泥棒」版の『モモ』を書いてみようかしら・・・。
誰かスポンサーになってくれたら、私の独断と偏見に満ちた本屋をやってみたい。本の評論はすべて無視して、古今東西の面白い本、読んで心に残る本を並べてみたい。夜になると本棚のスペースには飾棚のように淡い照明だけ当てて、本のにおいを肴に飲む、大人のバーに変身する。本当に本を読んでいる人たちだけのバー。あ、読んでなくても、本の好きな人なら入ってきてもいい。評論だけ読んで、タイトルと書評の話しかできない人はだめよ。

 おや、またお勧めしたい本の話から離れてしまいました。その千歳船橋で見つけた本屋で先週買ったのが、『手塚治虫小説集成』なのですが、えっ、彼は小説も書いていたのね、と口にしたら「そんなことも知らなかったの!」と長男に馬鹿にされた。あっちこっちに書いていたんだよ、と、この本にも書いてあるが、そういうことらしい。

 立東社という出版社は、不勉強だもので、知らなかったが㈱リットーミュージックという神保町にある会社で販売も手掛けているらしい。肝心の内容だが、手塚治虫が、あちこちにいろいろな形で書き残した18の作品を編んである。
 始のいくつかは、漫画のシノプシスとして書かれたものかな・・・と思いながら読んでいて、頭に漫画の場面が流れてきたが、途中から、あきらかに短編小説として楽しく読んだ。星新一の世界と隣に並んでいる世界。『羽と星くず』など、やはり手塚治虫らしい世界で、彼のイラストも入っている。

 

2016年8月14日

『人生のずる休み』北杜夫著 河出書房新書

 夏休みだから、でもないけれど、明日のFM軽井沢「魔法使いの本棚」では、この本を紹介したいと思う。
これは、昨年?・・・一昨年かもしれない!この頃、月日のたつのが矢の様どころか、瞬間移動の様に早くて、あっという間に後期高齢者になってしまった。だって、今月は、ではない、もう先月!先月の22日は私の誕生日で、今まで、人生の区切りのような年には、ちゃんと友人を招いて、規模はそれぞれだが、パーティを開くことにしていた。それなのに、後期高齢者記念?の今年の誕生日を、いつの間にか過ごしてしまうなんて!!

 いえ、お電話やらカードやら、FBでもいろいろな方からメッセージも頂いて、その瞬間はとても嬉しかったのに、嬉しさを味わう暇もなく、1ヶ月近くワープしてしまったわけで・・・。

 せっかく、北杜夫夫人が、胸に抱えてきてくださって、「せせらぎ文庫」に寄付して頂いたのに、昨年か一昨年か覚えていなくても、許して頂けるでしょうか。そうですね、一昨年だと思います。昨年のフェスタには、お嬢様とご一緒にフェスタと「はなそう会」に参加して下さって、戴いた他のご本の話をしたと思います。今年のフェスタにも、参加して下さるとの話を聞いていたのに、こちらから何の連絡もできなくて、当日になって「しまった!」と思いだしても、文字通り「あとのフェスタ」。

 そんな曰くの「ずる休み」というエッセイ、これは著者の没後、といっても3周忌だが、生前の著作の中から30余りを取り上げて編集してある。巻末に出典一覧があるが、著者自身のあとがきがないのが不思議に思えるほど、生き生きとして、愚痴っぽい。居間に寛いで語るのを、聞いている感覚で安らぎを感じる。

 年を取るにつれて、躁鬱病をはじめとする病気に悩まされ、私は精神病医だから、ちゃんとわかっている、と自分で精神状態を、ちゃんと?制御している様子が良くわかる。良き奥様と親孝行な娘さん(あたかも、困ったやつらだと言わんばかりに目を細めて描かれているが)に囲まれて、幸せな老後をおくられたのだということが良く分かる。

 これにも書かれているが、夏の間は中軽井沢の別荘に滞在されたので、近頃の軽井沢の様子が、何気なく描かれていて、他の作者が描く「軽井沢」とは、一味違っているのがうれしい。なぜかといえば、この頃は、地図上で「軽井沢」と書かれているところは、みんな軽井沢と呼ばれてしまっているが(あたりまえと言われればあたりまえだが)、ここにはちゃんと、中軽井沢とか、旧軽井沢とか分けて書かれていて、軽井沢の人間としては、この方があたりまえなので、有名な作家なのにもったいないが「仲間意識」で読んでしまう。

 一度、別荘の人と地元の人との交流会で車椅子姿をお見かけしたのだが、根が内気なものだから、ご挨拶もできなかった。奥様とお話しできるようになったのは、残念ながら亡くなられてからだった。「人の命の、つゆの晴れ間をまつものかは」。
 だから、いろいろな方とお話するチャンスを、逃したくなくて、近頃は特に、出られる会合はできるだけ参加するようにしていたら、とうとう過労で寝込んでしまうテイタラク。「元気な振りをするのは、やめなさいよ」と友人に警告されているのだが、明日もFM軽井沢で、元気に「こんにちわ!」とご挨拶できますように。
『人生のずる休み』って、なかなかできない、難しい課題かもしれない。

2016年8月 4日

グリム童話『あめふらし』出久根育絵 偕成社

 グリム童話には怖い、というか、残酷なお話が沢山あるが、この出久根育の絵はなんだか怖い。地に黒を使っているせいもあるが、人も魚もキツネも猫も、みんな白目がちで、もの言いたげである。絵が、絵ではなく、芝居の一場面を見ているように、セリフが聞こえてくるような気がする。
でも、このお話、『あめふらし』は、それほど怖くもない。少し残酷なところもあるけど。

 アメフラシというのは、海に住んでいるナメクジのような生物で、「うみうし」と呼ぶ地方もある。アメフラシが水中で紫色の液を出すと、雨雲が立ち込めるように見える様子から、「アメフラシが岩場に集まると雨が降る」といわれるのだが、これは、アメフラシが産卵のために岩場に現れる時期が梅雨と重なるからなのだそうだ。

 お話が始まっても、アメフラシはなかなか出てこない。昔ある国に王女がいて、お城の高い塔には12個の窓があって、1番目から12番目まで、だんだんに詳しく、よく見えるようになっているので、王女は国中にの出来事を、地面の下まで、とてもよく見ることができた。王女は結婚相手を選ぶにあたって、塔から見ても分からない場所に隠れること、という条件を出し、もし見つかったら、さらし首にする、とお触れを出した。次々とさらし首が増え、97本の杭が並んだので、名乗り出る者がいなくなった。

 ところが3人の兄弟が運試しをすることになり、杭が2本増えた。末の弟は「2度目までは見つかっても許してください。3度目に見つかったらこの首を差し上げます」と条件を付けて、許しを得る。そして、カラスと魚とキツネの命を助け、その代わりに彼らに隠れ場所を探してもらう。

 ん?まだ、アメフラシが出ない?そう、最後の最後に「あめふらし」が出てくる。勿論、子どもの絵本だが、大人が読んでも十分面白いし、絵に、何とも言えない雰囲気がある。

 せせらぎ文庫フェスタが終わったので、今日はマジメに絵本を取り上げてみた。今年のフェスタは、心身ともに疲れ切ったし、フェスタの前に、いろいろなことが起きて準備がほとんどできなかったので、なんだかやった気がしない。これまでと違う子ども達が来てくれたのは嬉しかったけれど、懐かしい子たちは、みんな大きくなりすぎて、見上げないと話ができない。大人になってしまった!あーあ。

 でも、例年フェスタをしていた海の日の連休に、嬉しいことがあった。2人の高校生が現れて、「6年位前に来ていたんだけど、覚てますか」という、幼顔がぼんやりと浮かんだ。アメリカの高校に留学していて、年齢的には1年生だけど、飛び級したので来年受験です、という。もう一人の子は、ハングルが読めない私に、韓国語の絵本を読んで訳してくれた。

 フェスタがあると思って来る子がいるかも、と思って、文庫に行っていて良かった!
来年からどうしようかな、と。いろいろ思い惑っている。

2016年8月 2日

『はなのすきなうし』岩波少年文庫

 むかし、スペインに フェルジナンドといううしがすんでいました・・・で始まるこの小型絵本は、多くの人の心のふるさと。8月1日の「せせらぎ文庫フェスタ」で、このスペイン語の読み聞かせを聞くことができた。渡辺万里氏の読み聞かせは聞きやすくて、「フェルジナンド」や「マタドール」などなど、お馴染みの単語を聞き取ることができた。だまってコルクの木の下に坐って、花の匂いを嗅ぐのが好きなフェルジナンドだったのに、クマンバチに刺されたおかげで、闘牛に選ばれてしまう。この日本語版の訳者を、今、ど忘れしてしまったのだが、「うしとはいえ、もののわかったおかあさんだったので」、という一行が好きで、私も自分のフェルジナンド達を、好きなようにさせて育てたものだった。え?何もしてやらなかっただけ?そういう考え方もあるけど。

 ・・・・という、穏やかな、楽しい気分で、今年のせせらぎ文庫フェスタも幕を下ろし、今日は静かな休日。おはらしょうすけさんのように、朝からお風呂に入り、もう一度、とろとろしたりしていたら、もうお昼の時間。今日中に3日分のカレーを作って、明日は、もっとゆっくり休もう、と計画しているのだが・・・・。

2016年8月 1日

『あたまにかきのき』唯野元弘作 鈴木出版

 「せせらぎ文庫フェスタ」の一日目に、この本を小林毅氏が読んだ。例年、読み手として参加している、お話ファゴットの杉山恵子さんが、都合で参加できないことが前々日に決まり、文庫フェスタから読み聞かせが消えては困るので、専門は演出家ではあるけれど演劇の研鑽を積んでいる毅氏に急遽依頼した。丁度ピーター・ゲスナー演出の『アンソニーとクレオパトラ』の演出助手として忙しい最中だったのだが、前日の夜中に軽井沢に着いて、昼過ぎに東京に帰る、というとんぼ返りで協力してくれた。

 日本民話の『あたまにかきのき』は、頭上に柿の種を落とされて、頭に柿の木が生えてしまった男の話。やがて実った柿の実を売って儲けたが、同業者に木を切られてしまい、その切株に生えたキノコを売ると、また同業者に恨まれて切株を掘り取られ、掘った穴に水がたまると泥鰌が住み着き、泥鰌を売って・・・と、途方もない話が続く。現実にどんな頭だろうと考えてしまうと、この話は成り立たないのだが、頭が池になったら、寝たとき水がこぼれる、とふと思ってしまったりすると、ああ、私も大人になってしまったと、がっかりする。とはいえ、そこは絵本のこと、村上豊の絵が、見事に昔話の世界に読者を引き戻してくれる。

 さて、せせらぎ文庫フェスタも、あとは8月1日(月)を残すばかりになった。
最終日は、渡辺万里氏のスペイン語の絵本の読み聞かせと、ビリー・ブラウンとその一座による"Hounted House"が、前の2日間と趣を変えてくれる。少し風邪気味だった、ポプコ・円谷氏も元気を取り戻し、どんぐりのクッキーなどで活躍の予定。ジニアス・円谷氏は3日間、6回の公演?を違うネタで、常連になった子ども達に目新しい実験をと張り切り、2日目の昨日は、静電気の実験で、体の丈夫そうな子どもと大人5人づつが手をつないで、一瞬体を通り抜ける静電気にギャッと叫んで、大喜びしていた。1日遅れて2日目から参加の滝本つみき氏のMCで、フェスタの変換もスムーズになり、刈田氏の愛弟子、ポプコ氏の折紙も引き続き好評で、折紙目当てで、昼休みだけ参加する子どもがあったりもしている。

 最終日、当日の参加も、もちろん大歓迎!はなそう会も、Kハウスのスペシャルカレーと、スペイン料理の差入れ!プレモルもアルコールフリーも、大人の皆様をお待ちしている。


ずーっと ずっと だいすきだよ (児童図書館・絵本の部屋)

(ASIN: 4566002764)
ハンス ウィルヘルム  
評論社 / 在庫あり。